JOURNAL クリエイティブとマーケティングの話

生後10日で2度の手術を乗り越えた息子の話

昨年9月3日午前1時45分、ベトナムにて長男が誕生しました。

本当であれば当日、遅くともその数日後には喜び一杯でご報告しそうなものですが、息子が未熟児で産まれ、また生まれつきの疾患を抱えていたために4か月の入院生活を余儀なくされておりました。

このまましばらくは自宅と病院を行き来する生活が続くかと思っていましたが、年末に突然退院できることになり、家族3人で新年を迎えることができました。

体重2150g、バリバリの未熟児

9月3日午前1時45分、予定日より1か月半早く、息子は誕生しました。

出産が終わった数時間後には息子の腸に疾患があることが発覚し、別の病院へ転院。

同じく妻も、出産時に腎臓を傷めたために別の病院へ転院することになりました。

息子誕生の喜びに浸る間もなく、妻子ともに緊急手術が必要という状況に叩き落されました。

しかも周りはベトナム人ばかり(当たり前ですが)で言葉が通じず、唯一英語が話せる妻は痛みで悶えている状態なので、このときはいったい何が起きているのか分かりませんでした。

駆けつけてくれた義妹が状況を説明してくれて、妻と息子がそれぞれ別の病院ですぐにでも手術を受ける必要があることが分かりました。

妻は搬送された病院で当日の夜には手術をし、1週間入院したのちに退院することができました。

しかし産褥期で精神的にも肉体的にも辛い中、息子が予断を許さない状況ということで毎日泣いていました。

息子は小児科の専門病院に搬送され、救急病棟で診断後に1回目の手術を受けました。

僕が息子と初対面したのは、この救急病棟で医者の説明を受けるときでした。

イメージしていた赤ちゃんの大きさよりも二回りくらい小さく、微動だにしない我が子をみていると、これから何が起こるのかという得体のしれない不安感に襲われました。

消化管穿孔という病気

息子は、消化管穿孔という病気でした。

消化管穿孔とは、生まれつき腸壁に穴が開いており、そこから便がお腹の中に漏れ出してしまう病気です。

またこの病院での検査で、消化管穿孔と同時に脳出血と肺の疾患もあるということが分かりました。

これまで「目の前が真っ白になる」というのは、ただの文章上の表現だと思っていました。

しかしこのとき、実際にそうなることがあるということを初めて知りました。

「妻になんて言おう」というのが、最初に頭に浮かんできたことでした。

妻は息子の誕生を本当に楽しみにしていたし、妊娠中にはジカ熱の流行に始まり、妊娠糖尿病の恐れがあるとか、羊水が少ないとか検査のたびに問題が噴出する感じで、僕も妻もすでに精神的にはかなり追い詰められていたからです。

しかし隠しておくわけにもいかず、今の状況とこれからのことを話しました。

話している間、息子が生まれたあとのことを嬉しそうに話していた妻の姿が思い出されて、そしてその姿と今の妻の姿のあまりの違いに、無力感と怒りと悲しさと悔しさが混ざったような、よくわからない感情が沸いて息が苦しくなりました。

2度目の手術

1回目の手術のあと、息子は新生児用の集中治療室に入りました。

そこでは室内に入ることは許されず、毎日30分だけ窓越しに面会できるシステムだったので、毎日その時間に病室まで行って、窓越しに遠くの息子を目を凝らして眺め、帰って妻に様子を報告するという生活をしていました。

しかし生後10日目の夕方、病院で待機していた義母から連絡があり、医者から「2回目の手術が必要、しかし息子は体力的に乗り越えられないだろう」という話をされたと言われました。

あのときの感情は、もう二度と味わいたくありません。

僕自身パニックになりかけましたが、それ以上に妻が取り乱していたので、それをなだめることで冷静になることができました。

とりあえず病院で待機しようということで出る準備をしていると、まだ動くのもしんどい妻が「自分も行く」と言って聞かないので、迷いましたが連れていくことにしました。

おそらく、これまでの人生で一番つらい夜でした。

正直それまで、妻の妊娠が分かっても、妻のお腹が日に日に大きくなっていっても、父親になる実感というか、自分の子どもが生まれるというのがどういうことなのかピンと来ていませんでした。

しかし実際に顔を見てからは、もう息子のこと以外は考えられないようになってしまいました。

この子を助けるためならすべてを投げ出せると心から思いました。

手術は深夜までかかり、さすがに妻の体調が心配なので近くのホテルに義妹と泊まってもらい、義母と僕とで手術が終わるのを待ちました。

医者が来て「無事完了」と言われたときは膝から崩れ落ちそうになりましたが、気を抜いたらいけない気がして耐えました。

4か月の入院生活

2度の手術を乗り越えた息子は、それから4か月の入院生活に入ります。

2回目の手術直後からは、以前は言っていた集中治療室よりもさらに重度な患者が入るという部屋に移されました。

手術は成功したものの、依然として予断は許さない状態でした。

いつ何があってもおかしくない、覚悟はしておいてくれと何度も言われました。

僕は2度目の手術のときに受けた義母の電話以降、電話が鳴ると呼吸が苦しくなるようになってしまったため、電話を受けなくても息子の様子が分かるように一日中病院内をうろつくという生活を始めました。

息子の病棟では、毎日15:30~16:00の間で10分間だけ家族のうち1人が入室を許されるという面会のルールがあったので、それに合わせて病室の待合室へ行き、僕か義母のどちらかが息子と面会し、終わったら家で待っている妻に状況を電話で報告、というのが1日のルーティーンでした。

息子の調子がいい日には、少し安心して近くのコーヒー屋に行ってスマホとPCを充電しつつ数時間仕事をし、また病院に戻って義母の買ってきてくれた簡易ベッドの上でまた仕事。

深夜になるとPCをカチャカチャ叩くのが周囲の人の迷惑になるため、荷物を持って病院の敷地内やその周辺を歩き回るという生活をしていました。

不眠症のようになってしまい、睡眠時間は1~2時間、まったく眠れない日もよくありました。

眠れないので深夜は何時間も歩き回っているわけですが、そのせいで足は靴ずれでボロボロになり、でも止まると嫌なことを考えてしまうので止まれない… という状態でした。

しかし入院生活も2か月を過ぎたあたりで、息子が集中治療室から出られることになりました。

今度は消化器科の病棟に移りました。

ここでも一般病棟ではなく、重病患者が入る部屋に入ったわけですが、それでもこれまでの部屋よりは程度は軽いようです。

またこの病棟では家族が付き添う必要があるため、ここからは義母と妻が二人がかりで息子の面倒を見ることになりました。

生後2か月で、僕は初めて息子を抱くことができました。

それまではどれだけ目の前にいても触れない状態だったので、本当にうれしかったです。

しかし同時に、息子の体重がものすごく軽いことを改めて実感して、喜びと不安がごちゃ混ぜになった気持ちになりました。

それからは、息子の腸の回復具合を見ながらミルクの量を調整したり、便がお腹の中に漏れていたために起こっている内臓の腫れを抑えるための抗生物質を点滴したりしながら、じわじわと快方へ向かうのを待つという毎日でした。

乳児の息子は血管が細く、点滴針がなかなか入らず1日に30回も針を刺されることもありました。

また、体調がよくなってきたのでミルクを増やしたら下痢になって体重が落ちて… というようなことを何度も繰り返しました。

病院では妻が日中から夜にかけて、義母が夜から朝にかけて息子の世話をし、僕は深夜から朝まで仕事、午後から夜まで病院で妻と義母の手伝いという感じの生活でした。

本当に根気のいる4か月でした。

退院の話が出たと思ったら息子が体調を崩し、ということも何度もあり、そのたびにがっかりしたり。

便の色が思わしくないとか肌の色がおかしいとか言われて何度も検査したり。

毎日毎日神経がすり減っていくようでした。

しかし、息子の体重も4800gになった12月27日、突然退院の許可が出ました。

正直こんなに急に帰ってこられるとは思っておらず、息子の受け入れ態勢ができていなかったために、大急ぎで哺乳瓶の煮沸器とかおもちゃとかその他諸々を買いに走りました。

予想していたよりもバタバタしていて、喜びに浸る時間もありませんでしたが、生まれてすぐにはぐったりして1㎜も動かなかった息子が、僕の腕の中でギャーギャー泣いて力いっぱい蹴ってくるのがとても幸せでした。

家族3人で年越し

想像もしていませんでしたが、家族3人で年を越すことができました。

とはいえベトナムでは旧暦の正月の方がメインですので、大晦日も元旦も静かなものでした。

それでも大みそかには日本の両親にSkypeで息子を見せることができホッとしました。

息子は今日、5300gになりました。

日に日に表情豊かになり、また視線もしっかり定まってきて、何より食欲があるのが救いです。

何度も「無理かも」と言われながらも、乗り越えてくれた息子には感謝しかありません。

またこんなに痛い思いをしながらも、生きることを諦めずに頑張ってくれたことを誇らしくも思います。

正直、息子が生まれてからのこの4か月、僕は彼に痛い思いしかさせていません。

注射針なんか、多分僕がこれまでの人生で刺されてきた何倍もの数をすでに刺されているでしょう。

実はまだ、息子は少なくともあと1回は手術を受けなくてはいけません。

また痛い思いをさせてしまいます。

それでも、そんなことも忘れるくらい、これから楽しいことをいっぱい知ってもらい、おいしいものをたくさん食べて、きれいなものを見に、たくさんの場所に連れていきたいと思っています。